目 次1.まえがき(宗教論のむづかしさ)
まえがき(宗教論のむづかしさ)
I.(ラッセルの)虚像と実像
(1) 虚像-無宗教人ラッセル
(2) 実像-自由人の信仰
II.ラッセルの新興宗教批判
(1) 教会と共産党
(2) 暗黒時代の再来
あとがき(若者と主教)
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「人間の起源,成長,希望,恐怖,愛,信念,等々のものは,さまざまな原子の偶然的な配列の帰結にほかならない。・・・。ラッセルは1927年に「自由人の信仰」に次のような付言をしている。
人間は太陽系の広大な死のなかで絶滅すべく運命づけられている。・・・。
全能だが盲目である自然が空間の深淵をただいつまでもかけめぐっているうちに,ついに人間という子供を産んだことは奇妙な神秘という外ない。その子供は,なおも自然の力に従属してはいるが,洞察力という天分をもち,善悪の知識をそなえ,考えることをしない母なる自然のあらゆる所業を判断する能力をもっている。この自由は人間にのみ属するものなのだ。・・・
行動においても,欲望においても,われわれは永久に、外部諸力の圧制に服せざるをえない。しかしながら,思考力において,また抱負において,われわれは自由なのである。・・・。
暗黒の諸力とのこの闘争に勝利することは,英雄たちの栄ある仲間に入るための真の洗礼であり,人間存在の征圧的な美にわけ入るための入門式である。魂が外部世界とこのように畏怖に満ちた出会いを演ずることから,自制と英知と慈愛が生まれる。その誕生とともに,新しい人生が始まる。抗し難い諸力によって人間がそのあやつり人形とうつるその諸力--つまり,死と変化,呼びもどせない過去へと封じ込める力,虚無から虚無へと盲目な宇宙の動きの前での人間の無力さ--を魂の内奥にとり入れること,そして,その諸力を感じかつ知ることは,それら諸力を征服することになるのである。・・・。
人間の人生はそれを外部的にながめた場合には自然の諸力にくらべて小さいものである。・・・。
時間や運命や死がどれほど偉大であるとしても,それらについて多く考え,それらの情熱なき壮麗さを感じとることは,もっと偉大なことである。そして,そのような思考こそがわれわれを自由な人間にさせるのである。・・・。 私的幸福への'闘争'を棄て去り,'はかない欲望'のあらゆる'執着'を霧散させ,永遠なるものを求めて,情熱に身を焼くことこそ,'解放'なのであり,また,「自由人の信仰」なのである。この解放は運命を冥想することによってもたらされる。・・・。
自由人は,あらゆる紐帯のうち最強のもの,すなわち'共通の運命'という紐帯によって同胞と結合し,新しいヴィジョンが日々の仕事に愛の光を投げかけながら,常に自分とともにあることを見出すのである。人間の人生は,闇を通り抜ける長い旅路である。・・・。
自分の外的生活を支配する気まぐれな圧制から,精神を自由に保ち,抗し難い諸力を誇り高く無規し,意識なき力の蹂躙にもめげず,自己の理想の形成する世界を孤独に支えること,それのみがわれわれに残された道である。」*3
*3『世界の大思想』第26巻(河出書房、市井三郎訳)
「根本的には宇宙における人間の立場についての私の見解は今も同じである。しかしもし私が今日書いているのだとすれば,多少修正したい二つの点がある。第一は唯物論に関するもので,第二は善悪の概念の範囲に関するものである。」この頃の彼は,唯物主義的なものとみなされる唯物論という用語に対し,次のように注をつけている。
「形而上学的に言えば,私は決して,物質の'実在'を信じてはいない。物質というものを日常の目的にとって便利な,しかも物理法則の大体の記述のための'論理的構成'であるとみなしているにすぎない。・・・。相対性原理の物理学では,終局的に存在するのは,過ぎ行く'出来事の世界'であって,これはある法則によって共存し相互に継続するのである。垣久的な物量というものがあるのではなく,「力」と呼ばれるような実体があるのでもない。物質を持続するとみたすことは,個人的な精神が持続するとみなすのと同様,想像的な誤謬である。「自由人の信仰」のラッセルの見解によれば,宇宙の深淵の中で偶発的な人類の誕生は宇宙の存在と運命を共にしなければならない。その宇宙の真相は完全には判らない。人類は個体的にも死すべきものであるという宇宙における'悲劇的宿命'を背負う徴小な存在である。唯,考える能力がある。悲劇的宿命を観得する時に人間は'拘束'から'自由'に解放される。その時,同じ宿命の不安におののく仲間のいることを知る。この宿命を負わせた主が誰であるか不明である。知るべくもない。心で想うだけの'不可知の絶対者'を想定して,願をかけ,一切の精力をかけることよりも,同じ運命の者同士の連帯感と仲間意識に目ざめ,手をつなぎ,生き抜こうとする勇気にこそ,宿命におののきふるえる徴小なる人間のとるべき道がある。そこに宿命から少しでも解放されうる'自由人の歩く道'がある。これが'自由人の信仰'である。たとえ,宿命の長い旅をつづけなくてはならないとしても。
私がこのユッセイを書いた当時,善と悪とがいわゆる「客観的」なものであると私は信じていた。今や私は,善と悪とは,いわゆる「主観的」なものであると信じている。」
「拝啓ミス・シナラ様
お手紙有難う存じました。'仏陀'は自分の思想が,独裁的な僧職をもつ無味乾燥なありきたりの宗教にまで零落することを欲しなかったという点において,貴女は全く正しいのです。私が考えますのに,こういう点で仏陀は例外的な存在だと思います。過去数千年の間たくさんの宗教的導師たちが,自分たちが最高至上の実在体と考えるものを求めてきたという点については正しいかも知れません。けれども彼らの多くは,この実在体を一つの人格という形で表現したものです。その人格は、人間を支配する権力をもつものと考えた人格なのです。そして,その権力というのは、彼らが小さい子供だったころ自分の父親が確かにもっていると思われる権力なのです。
人々はこの世が'苦難の場所'だということを知っています。そして,多くの面で怖がっているのです。彼らは自分たちのそうした問題に対処することができないと思っています。それから,また,事故や病気や死や不幸が起ってくる可能性にみたされながら,自分たちの敵対している環境の中で,孤独でいる恐怖に面とたち向うことはできないと思っているのです。その結果,彼らは神という強力な存在を発明します。
これは勇気を欠いているということに私も同感です。神なるものを信じた多くの宗教的指導者たちが迫害に直面して一種の個人的勇気を示したことは事実ではあるけれども,彼らが神という架空の神話の慰めのない世界に面とたち向う'知的な勇気'を欠いていたと,私は信じます。と申しますのも,とどのつまり,われわれに関する事柄で重要なのは,人間としての責任ということです。〔下略〕」
「全般的にいって,過去に行われていた信仰は'残酷'でもあり,無知でもあったとわたしは思います。1953年1月3日」
「思考を麻痒させる迷信的なものとしての宗教の性質は自明のことのように思われます。1959年12月3日」
「ある種の宗教的教育は絶対必要だとする意見に私は賛成しません。あらゆる宗教が少くとも部分的には,何らの証拠のないものを信ずることから成り立っていると考えます。1964年12月2日」
「宗教がわれわれの道徳律を保持するための責任を負っていることは事実です。その道徳律は聖書を根拠としたものでした。1966年4月27日」
「ほとんどの聖職者たちは,'山上の聖訓'で教えている平和主義を拒否して,自分は平和をもたらすためではなく,剣を投ずるために来た'というキリストの句を喜んで受け入れるのです。1960年6月16日」
宗教の有害性:
宗教は大きな害毒を流してきたと思います。保守的なやり方,古くからの習慣を忠実に守る態度を善いとし,更に,不寛容と憎しみとを善いとすることによって,そうなったことが多いのです。宗教の中にどの位不寛容が入りこんでいったか,特にヨーロッパでは,それは全く恐るべきものです。
自由な考え方を妨げる思想統制: キリスト教の国々と共産主義の国々では,種類がちがいます。双方ともあることを教えていて,その教えられているものの証拠は公正に検討されるわけではなく,児童は反対側にどんな言い分があるか,知るように心掛けよ,とは言われていません。
宗教を必要とさせたものは何か:
大体'恐怖心'と思います。人間はどちらかと言うと自分を無力と感ずるものです。人間に恐肺心を抱かせるものは三つです。(イ)自然の人間に対する猛威〔例,地震,落雷〕(ロ)人間同士のふるう猛威〔例,戦争〕(ハ)宗教と関係のある人間自身の激情〔例,迫害〕
組織宗教に人心掌握力があるか:
それは人々が社会問題を解決できるどうか,に懸っていると思います。大戦争や大抑制や極めて不幸な生活を送る人々が多くあり続けるとすれば,恐らく宗教もあり続けるでしょう。'神の慈悲に対する信仰は証拠と反比例する'というのが,これまで私の観察してきたところだからです。・・・。人々が社会問題を解決すればそれだけ宗教は消滅するだろうと思います。その例証はいろいろ歴史の中にあります。
霊魂の不滅を信じますか:
死ねば完全になくなってしまうと思います。
そうならぬ訳が判りません。肉体は分解するということは判っていますし,肉体が分解してしまっても,精神が存続すると想像すべき理由はまったくないと思います。
キリスト教 共産主義ヴァチカンとクレムリンとのこの対比表は別としても,独断性,排他性,迫害性の色濃いボルシェヴィズム(ソ連型共産主義)の宗教的性格に着目するのは必ずしもラッセル一人ではないかも知れない。
エホバ プロレタリアート
教会 共産党
再来 革命
地獄 資本主義社会
千年王国 共産主義社会
「マルクスにあっては,意識は感性的対象的に活動する社会的存在としての人間が現実をわがものとして獲得する活動の一形態なのです。意識は人間が自然を approprier し,自分と自然とを媒介的に統一する社会的労働に根をもち,人間の主体性の契機となった,人間の感性的活動の一形態です。もし世界を即自的な物質に還元して,そのような物質的自然が弁証法的法則をもっていると考え,意識や思惟をそのような物質の反映だとみなすのがマルクス主義であるとしたら,マルクス主義も現実を「実践として主体的にとらえる」ことのできない唯物論になる。つまりマルクス主義は人間的なもの,主体的なもの,人格的なもの,歴史的なものを一切緒め出してしまう形而上学的唯物論になってしまう。否,むしろ神学的唯物論になり,弁証法は可知性の根拠のないいわば物質という絶対者の「摂理」になります。以上の竹内教授の見解は,恐らく「正統派マルクス」主義者たちから,非難されるものかも知れない。彼らは,「レーニンのマルクス理解とマルクス自身の哲学思想とのあいだにひとつのズレがあること,レーニンが受け継いだプレハーノフの唯物論はマルクス自身の唯物論とちがって,形而上学的唯物論の性格をもつこと,エンゲルスもレーニンもそしてプレハーノフもへ一ゲルの「マテリーの弁証法」をそのまま書き写して,それに実体化された「物質」概念を結びつけ,弁証法的唯物論を主張しているに過ぎないこと」などを理解しないからであると,竹内教授は説く。(pp.22,23)
マルクス主義がそのようなものであるならば,マルクス主義は宗教を理解することも,宗教に意味を認めることもできなくなります。もしマルクス主義と宗教との間で対話が行われるとしても,そこでは神があるかないかという議論が平行するだけです。
つまり,両者の間には,実は,'対話'ということは成立のしようがないわけです。というのは,互に否定しあう外ないからです。しかも,それは抽象的に否定しあうだけですから,両者の対立の決着をつけるには,相手の存在を絶滅させる外ないということにならざるをえなくなりましょう。だが,その時には,マルクス主義もいわば一つの宗教になってしまっていることになります。」(p.66太字筆者)
「しかし,人間の自已創造の立場に立ち,宗教も人間が作るものであるみなすマルクス主義は決して宗教と対立するのではなく,宗教を無意味なものとして嘲笑もしません。
マルクス主義は,人間が人間と人間世界をつくる歴史的過程を解明しうる立場に立つからこそ,つまり,有神論と無神論とをのり越えた無神論であるからこそ,宗教の幻想性を批判し,その幻想の中に含まれている真実を解読することができます。言い換えれば,宗教がその中に含んでいる社会的人間についての conception を取り出し、そこに示されている人間の現実、人間と人間との真の結合という要求を現実的に実現するための具体的条件を明らかにすることができるのです。
マルクス主義が宗教を批判するのは,信者たちに宗教を棄てさせるためではなく,逆に,宗教的観念のはらんでいる幻想的要素を明らかにして,宗教がめざす深い人間的要求,つまり,真の人間の実現,人間と人間との真の結合という要求を現実的に実現する道を示すためです。マルクス主義は宗教の源泉と宗教がふくむ深い真理を理解し,解明することができるからこそ,宗教を批判するわけです。宗教の源泉を明らかにし,宗教に表現されている人間の深い真実,そこに含まれている社会的人間のつかみ方を理解し,読み解くことができないならば,宗教を批判することはできません。宗教に対する傲慢な否定は決してマルクス主義的宗教批判ではありません。宗教と抽象的に対立し,宗教を否認するだけでは,マルクス主義もまた一つの擬似宗教になってしまいます。・・・。マルクス主義は決して一つの擬似宗教ではありません。」(pp.68~69青の太字は筆者)
「人間の対象的活動から切り離した「物質」を絶対化する唯物論に立っているため,人間の主体性と社会性との契機である意識を具体的にとらえることができず,意識を「物質」の反映とみなすことになるわけです。これにすら,「正統派」マルクス主義者は往々気付かずにいます。」(p.63)ここで二つの点に留意したい。
「マルクス主義は,宗教を,人間の一つの疎外形態として批判します。私的所有という社会的生産関係における「経済的疎外」を基礎として成立する疎外された意識の形態として,一つの幻想として,宗教を批判します。」(p.51)