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「われわれは,'実数概念の無矛眉性の証明'という目標の下に,ここまで分析を重ねてきたのであった。ここに,あるいは,かようなことを数学者の閑事業にすぎないことと評される向きもあるかと察せられる。しかし,これは数学にかける最も重大な問題の一つなのであって,大げさに言えば,ここに'数学の浮沈'がかけられているのである。これを説明するためには,歴史的に見出された'集合論の矛盾'に言及するのが捷径(せっけい)であろう。〔中略〕ラッセルが物事を考える才能に自分が恵まれていることに気付いたのは,小学生位の年頃で7歳年上の兄フランクから幾何学の手ほどきを受けた時であっった。その逸話は有名である。
この背理(パラドクス)はいったいどこが間違っているのであろうか。実を言うと,現在(1936年)のところでは,まだこれは非常な難問として残されているのである。
これはラッセルによって見出されたものであって,その故に,彼の名を冠して,'ラッセルの背理'と称せられる。まさしく,集合概念が少し自由に過ぎ,そのままでは,矛盾を含んだものであることを如実に示すものであろう。〔中略〕
この背理は数学の基礎に関して,激しい危機感をかもし出したものである。上に述べたように,本質的な困難は今日でもなお解決されていない,と言ってもよいであろう。」*5
'ソビエト'は現実に存在していなかった。大衆討議は,結局,挙手による投票にすりかえられ,官僚独裁に悪用されていた。市民社会の伝統のないロシアには直接民主主義の実践は時期尚早であった。前衛の官僚独裁が将来,初代革命家の苦労を裏切り,社会主義の変質を招くという論理を1920年に彼は洞察していた。これはラッセルの権力論の帰結である。そして,『中国の問題』(1922)の第1章「問題点」の中で,ボルシェヴィキ(つまりレーニン派)はロシアのアメリカ化を目指し,つまり機械文明,物質文明の信奉者である点で,明治維新の日本の指導者と同じ心情姿勢だと評している。それは,ラッセルが最も心配していた平板な西欧主義の模傲であったからである。六十余年のロシアの歩みは後進工業国が国家資本主義によって,国家資本主義の大国になったのではあるまいか。〔国家資本主義でも,ソ連の現状の生活水準向上,教育の向上・普及は可能である。〕この点を,今日,中・ソ論争で,中国は前衛の官僚独裁制が社会主義を変質させ,修正主義(実はアメリカ資本主義的傾向)の国,社会帝国主義の国と批判している。ラッセルの上述の著書の用語と対照すると興味深い。
ロシア革命には功罪相半ばする両面があった。ボルシェヴィズムの性急な官僚独裁的方式はやがて,折角のレーニンたちの努力に反する社会を生み,やがてナポレオン的体制の帝国主義国にする,と予想した。
暴力革命の余波で,また第三インターの活動とで,外人技師や,外国品を輸入に依存していた当時の後進的産業も崩壊した。天然資源は豊富であり,また輸出できるほど農産物があったにも拘らず,見返りとしての農具の生産の減退・欠如から農産物の供出をしぶり,労働者は職場を捨てて,食糧買い出しに行く。炭坑には石炭が充分あったが,坑夫が不足し,鉄道は木材をたいて走る。レーニンの目指す経済政策が悪いというのではなく,政治政策の失敗によって,不要な悪順環を招いていた。その政治政策は官僚独裁主義の強行である。大衆を自発的に動かすよりも,上から命令し,処罰する方式で,却って前衛幹部の仕事は増大するばかりで,折角の社会主義建設は遅れるばかり。しかし,酉欧よりも国民生活の秩序正しいのには感心した。
「わたくしの人生を支配してきたのは,単純ではあるが,圧倒的に強い三つの情熱である。--愛への熱望,知識の深求,それから,見るにしのびぬ人類の苦悩にそそぐ無限の同情である。この最後の,もしも機会が与えられるならば,もう一度,喜んでこの人生を生きようと思う。」というくだりに,徹底したヒューマニズムが結晶している。天国を夢みる姿ではない。神に祈る心情ではない。
こうした情熱がちょうど大風のように私をそこかしこに吹き飛ばした。--気のおもむくままに,深い苦悶の大海原を越え,絶望の岸へと吹き寄せた。〔中略〕
愛と知識とはその可能な限りでは,高く天国に達した。
しかし,憐欄の情が私を地上に引き戻した。苦悶の叫びが反響して,私の胸に響くのである。〔中略〕
この社会悪を私は滅したいと切望する。しかし,私にはできない。それで私もまた苦悶する。これが今日までの私の人生である。しかし,この人生は生きるに値する人生だと,私は思う。そして,もしも機会が与えられるならば,もう一度,喜んでこの人生を生きようと思う。」