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「私が、改造社同人を代表して、博士招聘のため北京に着いたのは、一九二〇(大正九)年初秋、楊柳(注:かわやなぎ: 水辺に多く自生する、やなぎ科の落葉高木)の黄ばんだ北京の街々が古都の静寂さ身にしみるような朝であった。前門駅に着くと、その足ですぐ公使館に、小幡酉吉公使を訪ねた。公使は、私の来意をジッと聞いていたが、やおら身をおこして、"君、軍部で上陸を拒否するかもしれないぞ、どうもその不安がある・・・"と顔色をくもらせた」(「思い出の作家たち」・横関 232頁)。検閲は、当時中国改造社の主幹蒋万里、晨報主筆陳博生の斡旋で、ラッセルをその宿舎大陸飯店に訪い、日本招待の意向を伝えた。その時、ラッセルは「私の日本行きに政府が同意するか、日本では、政府が思想的にいろいろ圧迫を加えていると聞いているが・・・」と言ったという。彼は当時の日本の状況に就いて、かなり正確な認識を持ち、また来日を約束してからは、毎号の「改造」を北京大学生に翻訳させて、すべてを読んでいて「一般的雑誌でこれほど高級なものは、世界中に二つとない」と評価していたという。ラッセルは、大正十年七月十七日、神戸港に着いた。その日の模様を山本(注:改造社社長)は「三人の賓客」のなかで、次のように書いている。
「その日、神戸埠頭には、労働組合旗が幾十となく、ひるがえっておった。何でも、神戸、大阪付近一帯の労働組合員五万は、諏訪山かどこかに集合して、一斉に氏を迎えるつもりで、それぞれ手筈をきめたのであったが、それは当局の許すところとならなかった」ラッセルは、はじめ我国各地で講演をおこなう予定であったが、北京滞在中に病気になり、なお衰弱が甚だしかったため、京都及び東京で、学者、思想家と懇談会に出席、かたわら、「改造」への寄稿執筆に専念したが、七月の末になって、「ゼヒ一度、講演をやって、改造社の貴意に副いたい」との意向を洩らし、七月二十九日、慶応義塾大ホール(注:慶応三田大講堂)で約三千の聴衆を前に「文明の再建」と題する講演をおこなった。