私はラッセルの私生活についてはアラン・ウッドの伝記(みすず書房刊の邦訳もある)に書かれている以上のことはほとんど知らないし、結婚という問題一般についてのラッセル自身の著作も大して読んではいないのだが、今度この小論を書くため手許にあったある洋書のなかのラッセルの Trial Marriage (試験結婚)と題する1929年の短い論文(これは、みすず書房刊のラッセル選集の第8巻『結婚論』に収められているかもしれない)を読み、以下のような質問を発したい気持をいっそう強められた。(松下注:収録されています。)
右の Trial Marriage を読んでいるとき私は、だいぶ前に読んだ福田恆存氏の評論集『常識に還れ』(新潮社刊)のなかのある文章を思いだして、大変おもしろく思った。それは、福田氏がある新聞に連載した「天邪鬼」と題するコラムのなかの「一夫一婦制礼讃論」という小文、とくにそのなかの「雑婚〔乱交〕は面倒くさくていけない。人間の生活は男女関係だけでなく、他にもいろいろすることがあるのに、雑婚となると、また一つ仕事がふえる。……」という個所である。これと符合する(と私が感じた)文章を含むラッセルの右の小論は、第一次大戦の戦後時代-1920年代-のアメリカの若い人たちの性風俗の実態をみて、禁酒法とキリスト教性道徳の支配のもとで横行している乱痴気パーティーやカーセックスなどの弊害への対策について論じたエッセイなのだが、当時であれ今日であれ、若い男女にとってであれ、中老以後の男女にとってであれ、乱交雑婚が通常である社会での生活は面倒くさくていけないにちがいない、と私は思う。子どもが生まれたらなおさらだが、子どもができず、性病などの感染の心配も全くなくてさえ、やはりそうであろう。