バートランド・ラッセル『怠惰への讃歌』訳者 (堀秀彦・柿村峻) 解説
* 出典:バートランド・ラッセル(著),堀秀彦・柿村峻(共訳)『怠惰への讃歌』(角川書店,1958年刊。210pp. 角川文庫 n.1720)* 原著:In Praise of Idleness, and Other Essays, 1935.
* (故)堀秀彦氏略歴<
数学は抜きにして、なにが私を引きつけるのか。
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それにしてもさっきあげた、2プラス2のたとえは、まことに判り易くしかも意表をついた比喩だ。ラッセルの本の面白さは、第2に、そのたくみな引例である。たくみで平易な引例による理論は、しばしば問題を根本的なところからときほぐしてくれるようだ。その意味で、――この『怠惰への讃歌』にも随所に表われているように――私たちは彼の著述のなかで、思わずハッとさせられることがある。「幸福と繁栄にいたる道は、仕事を組織的にへらして行くに在る」という場合、それは一見はなはだしい逆説のように聞こえる。だが、スナオにそして正直に、われわれも自身を反省してみよう。われわれは労働よりも休息が好きなのだ。あんまり働かないで幸福にくらせる、これがわれわれの正直な願いだと思う。つまりラッセルは、はっきりと当り前のことを正直に言う。一定の先入見や偏見なしに読めば、誰もが文句なしに承認せざるを得ないことを、平易な例をひきながら言う。私はそういう点に最も強く引かれる。考えてみれば、私が東大で哲学科にいたころ、学者たちは全部ドイツ観念論派であった。それは文字通り、息抜き一つない概念のくそまじめな羅列であった。私にはそれがたまらなかった。そしてそれだからこそ、ラッセル式の、英米の哲学書に接したとき、私はこれが本当の哲学のような気がしたのだ。それはいわゆる深奥ではなかった。それは日常的な表現で、正確に問題を提起し、解決を与えるものであった。
第3に、ラッセルの本にはふんだんに歴史的な事実やエピソードの引用が出てくる。そういう彼の面を最も強く表わしたものが『権力』(Power, 1938: 邦訳書は、みすず書房刊)であろう。彼は歴史に通じている。本当にそんなことがあったのかな、と思いながら、私は興味深く読まされてしまう。それにしても、『西洋哲学史』(A History of Western Philosophy, 1945: 邦訳書は、みすず書房刊。全3巻)ほど面白い、ふくらみと厚みのある哲学史が他にあろうか。要するに、ラッセルの著書は生き生きしている。しかも正確な論理と、徹底した合理主義に貫かれている。彼は神を信じない。無宗教である。しかも科学がいま人類を脅かしていることを叫ぶ点で、彼は世界の先頭に立っている。彼は科学万能主義者ではない。彼は右でも左でもない。彼が最も憎んでいるものは、狂信主義と残酷のように見える。彼はどこまでも理性の人のようだ。純粋の理性の人のみをもし「哲人」と呼び得るとすれば、20世紀の最高の「哲人」がラッセルだと思う。
この翻訳は、柿村氏の手になるものだ。この本は時間的にはもうかなり前のものだ。ところどころにその意味で、古い歴史的事情が引き合いに出されている。けれども、一貫して流れている批判の眼、先見の鋭さ、それは古いどころか、いまもなお真新しい。1人でも多く読んでほしいと思う。怠惰をたたえるのは、英国の場合、なにもラッセル(1人)には限らない。19、20世紀のイギリス人のエッセイを読むと、こういうテーマはいくつも出てくる。例えば「なんにもしないことについて」(On doing nothing)といった題で。だが、それらの「無為」をたたえる東洋風なエッセイとラッセルのそれとの違いはやはり、ラッセルの書き方、考え力の論理的性格にあるように思われる。そういう点で、ラッセルの持ち味は、まったく独自のものなのだろう。
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